商社マンからの手紙~繊維業界への提言

繊維とともに生きた15年、繊維の業界は激変した。日本最強の繊維商社で日本の繊維業界を作り上げてきた商社マンがみたものとは何か.... 自らの総合商社人生を語り繊維業界の次世代の提言をおこなう

1、新人類と呼ばれて

1985年、日本がバブル経済への階段を昇っていく以前に、私は総合商社である○●○に入社した。私たちの世代は「新人類」と呼ばれ「明るく悩まず屈託ない、だけど身勝手で無感覚、そしてシニカル」という印象を当時の世間からもたれていた世代である。私は、柄にもなく銀行や保険会社なども会社訪問したが、やっぱり初めのイメージというか直感で最終的に入社を決めたのが○●○だった。今年、40歳になったが、あの時の直感は間違ってはいなかったなぁと思っている。(まぁそれはしかし、現段階の話ではあるが)

入社時、配属された部署は「大阪本社 織物貿易第二部 短繊維織物第二課」というところだった。辞令を受け取った時、「なんじゃこら??」と何をしている部署なのか、皆目 見当がつかなかった。 それに私は繊維部門を希望していたわけではなかった為、多少の戸惑いもあったが「繊維かぁ。まぁ、なんか貿易と書いてあるし、商社らしくっていいや」とその程度の感想だった。ちなみに、この年は我が阪神タイガースが21年ぶりのセ・リーグ制覇を果たし、日本シリーズでは西武ライオンズを倒し、初の日本一に輝いた記念すべき年でもあることも付け加えておきたい。

織物貿易第二部なる部署は、主に日本製の布帛素材を海外に輸出している部署であり、その中でも私が配属された短繊維織物第二課は、主に欧州、中近東、大洋州、南米などが担当エリアであった。ちなみに第一部は合成繊維中心の取り扱い、第二部は天然繊維中心の取り扱いという区分けであった。入社するとまず受渡という業務を担当する。営業マンが契約した内容に基づき、納期管理、仕入れ、売上、貿易実務、入金管理などを行うのが主な業務である。入社した当時は、日本製素材の国際競争力は圧倒的に強く、連日連夜、深夜残業せねばならないほどの売上であり、5月病などと言っていられないような日々であった。課内のムードもよく、忙しかったけれど楽しかったし、とても充実していたように思う。貿易部隊だけに、オフィスに飛び交う英語、中国語、スペイン語、そしてTELEXの音の中で暮らしていた。駐在員が各国より一時帰国などした時は、仕事以外の面でもその国々の事情や文化が聞けることがとても楽しみであり、海外駐在員に憧れていた。
ところが、である。

2、円高時代に突入、そしてバブル景気へ

1985年9月22日 出社してみると社内がざわめいている。「どうしたんかな?」と思って新聞に目を通すと「プラザ合意(5か国蔵相・中央銀行総裁会議声明)」とあった。当時、米国の財政赤字、貿易赤字のいわゆる双子の赤字が世界的に問題となっており、これを解決すべく、為替をドル安方向に誘導するというものである。プラザ合意前の為替レートは1ドル=242円であったが、11月末には202円まで円高が進んだ。その後、1988年の1月までに1ドル=120円まで円高が進むことになるのだが、急激な円高の影響は実体経済に波及し、日本は深刻な円高不況に陥った。その円高不況を克服すべく、日銀は翌年に大幅な金融緩和を実施し、例のバブル経済に火が点くことになるのである。私の部署は輸出で飯を食っているわけだから、円高は死活問題である。ここからは大変であった。案の定、円は日増しに強くなり我々の扱い商品の国際競争力はその真価を問われる時代に入り、我々 輸出部隊は苦境に立たされることになった。
私も86年に受渡を卒業し、営業マンとしてデビューを果たすが、ぽっと出の営業が簡単に物を海外に売れるほど環境は甘くなかった。メーカー側も、当面のライバルである韓国や台湾の商品との差別化を図り、且つ 合理化でコストを削減し、円高対策を講じてはいるのだが、それを上回るペースで円は上昇していった。当然、輸出部隊全体の売上や利益はじりじりと低迷し、組織も縮小を余儀なくされた。しかしながら、その時 感心したのは 日本の素材メーカーの底力である。各社、選択と集中により韓台とのすみわけを図り、日本で生産するもの、海外生産するものに分け、急激に全面的に競争力が落ちなかったのは見事だと思った。総量は大幅に減少したとはいえ今も○●○が輸出専業の大部隊を抱えて経営が成り立っており、GAPなどの大手SPAも現在も尚、日本から素材を買い付けしていることがその粘り強い国際競争力を物語っている。

 円高で苦しんでいたその頃、私が日本のデニム素材を輸出していたスペインのジーンズメーカーより、彼らのジーンズを日本で売ってくれないか、との打診があった。おりしも日本国内はバブル景気真っ盛りで、円高という追い風もあり欧州より様々な高級ジーンズが日本に輸入されていた時期でもあった。彼らも日本市場に色気を持ったのだろう。私は是非やりたい、と上司に直訴した。その時よくわかったが、商社っていうのは周りから見るほど何事にもアグレッシブというわけではなく、それよりもリスク管理のほうが重要とされる。案の定、課長は「そんなもん輸出しか知らない人間が、国内の商売なんかできるか? そういうのは国内部隊にまわせ。」と言われた。しかしめげずに次は機会見て部長に直訴。 結果は「やってみぃ」。
自ら希望して無理矢理にやらせてもらうことだけに、従来の「流れ」の仕事とは集中力が違った。しかし、輸出部隊だけに誰も国内にコネがない。知り合いの知り合いの知り合いくらいで、岡山のジーンズメーカーがあり、紹介してもらった。そちらも、欧州のジーンズブランド導入を検討していたことと、バルセロナ五輪を控えていたこともありスペイン製のジーンズそのものにも興味を持って頂き、意外にもすんなり話は運んだ。「やったらできるやん!」結果的には、その後のスペイン側の経営環境の悪化と日本でもバブルが崩壊しつつある中で欧州タイプのジーンズの売れ行きが悪くなったこともあり、それ程の大きなブランドに育てることはできす、その商売自体は当時立ち消えてしまったわけであるが、「なんでもやってみたろ」という精神はこの時、形成されたように思う。余談ではあるが、そのスペインの会社は、現在見事にブランドの再構築を果たし、「シマロン」の名で他社経由展開され日本でも人気のジーンズブランドに育っている。「もったいないなぁ。。。」

 この頃、もう一つ 思い出に残っている仕事がある。
前述通り、私は生地の輸出を生業とする部署にいたわけであるが、バブル真っ盛りの日本市場、特に Tokyo を、従来の輸出での大市場である、New York やLondon、Hong Kongのように扱い、東京市場に向けて素材を輸出部隊が供給する、という展開を一人で試みた。私が働いていた貿易本部は、入社以来、貿易一筋という人間が多かったため、国内取引に対しての警戒感が強く、時の上司も半信半疑で「まぁ、損はするなよ」という感じで、私の試みを容認していた。しかし、東京のアパレルメーカーも円高メリットを活かすため、国内の素材を縫製コストの安い海外に持ち込み、海外で縫製後、製品で日本に持ち帰るオペレーションをスタートさせていた時期でもあったし、また、当時の○●○の国内製品部隊には素材のことがわかる人材が手薄だったこともあって、彼らの製品のビジネスにおける素材担当的な動きにより面白いように商売ができた。円高を逆手に取ることができたわけである。また、輸出部隊が扱っているというメリットを活かすため、「アメリカの***では、こういうものがPICK-UPされています」とか「イギリスの+++では、来春夏のパンツ素材として、こういうものをかなり使うみたいですね」とか言って海外の情報をベースにしたプレゼンテーションを前面に押し出したりして、国内の生地問屋のプレゼンテーションとの差別化を図ったりした。一部のDC系は別にして、日本の大手総合アパレルメーカーというのは、概して自社の製品に独自の主張や理念があるわけではなく、あくまで欧米の主力アパレルメーカーの後追いになっていることも、この時 痛感した。つまりは著名な欧米のアパレルメーカーが使用したりPICK-UPしたり、という素材は大体「じゃぁ、これも」みたいな感じで、日本のデザイナーさんはPICKUPすることが多いのである。「おいおい。そんなもんかいな?」それまで私は欧米のアパレルメーカーのMDやデザイナーに素材をプレゼンし販売していたため、欧米のアパレルメーカーと日本のアパレルメーカーの素材を見る目、追求する精神の差は歴然と感じた。欧米のアパレルメーカーは世界中の素材を研究して熟知していたし、自分たち独自のアイデアによる素材開発にも積極的。そしてなによりブランドとしての主張があった。ところが日本のアパレルメーカーの現場からは、そういう気概は全く感じなかった為、正直 個人的にはがっかりもした。日本では早くから生地問屋が発達しておりアパレルメーカーに日参している為、MDもデザイナーも手取り足取り状態による素材調達に慣れきってしまっているし、また契約観念の薄い悪しき業界風習の為、自分のリスクでこれだけの量を仕入れするのだ、という厳しい仕入れをしていない。売れ行きが悪いとコミットしていた生地でも泣きを入れてキャンセルなどしてしまう。(というか それを許してしまう悪しき風習)また、そんな具合だから融通の効く一定の業者からの素材買い付けが増えることになり、入ってくる情報も少なくなるし、入ってきたとしても情報は偏っている。後でまた述べるが、こういう点からも日本のアパレルメーカーが日本の数ある産業の中で産業としての国際競争力を全く培えない大きな原因がよくわかる。

3、香港駐在
1992年 ○●○ 香港会社に転勤した。憧れていた駐在員生活の始まりである。香港は駐在前よりも出張でよく来ていたし、繊維部門からの駐在員数や繊維ビジネスの規模から言っても社内でニューヨーク店と並ぶ基幹店であった為、社員にとって悪い駐在地ではなかったのだが、前述通り Tokyo向けの新ビジネスモデル構築に燃えていた矢先だけに この時期の異動は納得がいかず一度は部長に「一体何を考えているのか。なんの意図もない適当な人事異動だ。」みたく食ってかかり、「バカモン!」と一喝され、渋々に納得したことは 今となっては懐かしい想い出である。よくも部長に青二才がそんな事言えたな、と自分でも苦笑いしてしまう。香港での主な業務としては、駐在の前半戦は日本素材の香港縫製メーカーへの売り込みであった。日本の感覚で言うと「どうして縫製屋さんに生地を売るんだ?」ってことになるのだが、GAPのような香港に買付機関を置く大手ストアは別にして、欧米アパレルメーカー、ストアの多くは香港の縫製メーカーより製品を買付する形態が多い。つまりは、日本の縫製業と香港の縫製業は全くビジネスモデルが違うわけである。香港の縫製業者は豊富な資金を背景に自社で生地を買付し、製品として欧米(一部 日本)に輸出している。大手縫製メーカーになると自社でデザイナーを抱え、アパレルメーカー化しているところすらある。つまり、リスクを取っているわけである。彼らは香港の人件費の高騰により、国際競争力が失われると見ると素早く生産地を中国内へ、中国内でも シンセンが駄目なら上海、上海が駄目なら更に別の場所へと生産地を変えて行き、かたや南へも生産地を拡大する。ベトナム、マレーシア、ミャンマー等々。とにかく決断と動きが速い。日本国内の縫製業が円高による輸入品に押し流されるようになんの抵抗もなく、ずるずると衰退していったのとは全く大違いである。ただ香港の縫製メーカーもそんな感じだからよく失敗もしている。しかし、その金儲けに対するバイタリティは恐ろしい。新年の挨拶で、日本人なら「あけましておめでとう」だが 彼らは「金儲けして今年もHappy!」のような意味の広東語で 老若男女が挨拶をするのである。私自身も日本では商人の町とされる大阪で生まれ育ったのだが、もし自分が独立して香港で商売したらとてもじゃないが一対一じゃ彼らに勝てないな、とその時 思った。

駐在生活後半戦は、更なる超円高時代となり 一時期 1ドル=¥79.75という史上最高値もあった。さすがに日本の素材は全く売れない。安定した品質と納期管理を評価して多少高くとも日本の素材を買ってくれていた客先も、一部の特殊素材を除き 次々と素材仕入先を韓国や台湾にシフトしていった。そうなると駐在員として全く食えなくなるわけで、急激に三国取引中心の業務にシフトしていった。例えば、それまで日本の生地を売っていた客先に韓国品や台湾品、インドネシア品を売るのである。時にはパキスタンなどより生機を輸入し、中国で染め仕上げ加工して中南米に再輸出、みたいなことも大きなビジネスとなった。それまで世話になっていた日本の生地メーカーの方々には申し訳なかったが、商社という存在のしぶとさと節操の無さを同時に実感した。その頃、経験したことで思い出深いのは、韓国品を我々日本人が介在して、中国人(香港人)に売り、商品に問題が発生しクレームとなったときの交渉の難しさ、である。それまでは日本人の私が、日本のメーカーより買ったものを香港人に売ると単純明快なビジネスだった故、クレームとなって仕入れ先(日本人)と交渉するのは同じ価値基準で話せるため、解決は早かった。しかし、仕入先・韓国 売り先・中国 中間・日本 という構図は、3つの価値基準が全く違うため、問題が発生したときの解決といったらそれはもう大変だった。時には第二次大戦時における日本の戦争責任にまで話が及んだこともあった。そうなるともう挟み撃ち状態で、その場合は話をそらすのに必死だった。それやこれやで約3年が過ぎ、日本に帰任命令が出る。今度は東京本社でアパレル部隊への辞令だった。しかし、今、思い返しても楽しい香港駐在時代であった。超円高により仕事は苦戦が続いていたにもかかわらず、ちょうど香港がバブル景気で街には活気が溢れていた為だろう。なぜか楽しい思い出が多い駐在員生活であった。しかし、仕事の面では、これといったヒットがなくその意味では後悔も多い。

4、そして東京へ
 1995年 東京本社のアパレル部隊に着任した。配属された課は、主として婦人服を扱っていた。大手のアパレルメーカーの製品を受託して彼らのブランドで製造し、納品する。いわゆるOEMである。ここでまた、私は商社マンとして色々なカルチャーショックを受ける。香港着任当初もカルチャーショックは色々とあったが、それはやはり違う国ということもあり、ある程度は覚悟していたので、それほどは大きなインパクトはなかったが、アパレル部隊に来たときは色々とインパクトがあり大変苦労をした。というのは、それまでの私は貿易部隊にいたので、よく考えてみれば純粋に国内取引をしたことがなかったのである。 大阪にいた頃、確かに東京市場に生地を売ってはいたが、そのほとんどが海外の縫製地への輸出であった。「素材を海外に輸出する」業務から「製品を海外より輸入して国内で売る」業務への大転換である。契約書もない、L/Cもない、口頭もしくは法的効力などなさそうなファックスでの受注。入社11年目にして国内取引初体験の私は当時ひどく疲れた。また、原則として契約書をベースにL/Cで決済していた貿易本部時代とは違い契約が契約でないことも再三であり、そのあたりのさばき方の経験がなかった私はいつもイライラしていたように思う。しかし、私がここで言いたいのはそういう業界なのだから慣れろと言う妥協の精神より、世界の繊維業界の取引の中で明らかに日本の国内取引の慣習というのは悪い意味で特殊であり、グローバルスタンダードではないということである。前述通り、日本の数ある産業の中で最も国際競争力のない産業の一つが日本アパレル産業である所以がここらあたりにあるように思う。まずここらあたりから整備し、世界でも通じるクリアな国内取引条件、慣習を実践していかないと永遠に日本のアパレル産業には国際的感度や競争力など生まれてこないし、ゆくゆくは海外よりの黒船(外資系アパレル、ストア等)に飲み込まれていくように思う。

5、市場の開放と日本アパレル産業の国際競争力

前にも述べたが、日本は世界でも有数の優秀な素材を生産する技術があり、高い国際競争力を伝統的に持っている。縫製するミシンの性能しかり、である。デザインという意味でも三宅一生や、川久保玲、山本耀司など優秀なデザイナーを輩出しているし、日本の消費者は世界でもお洒落で有名だ。背景だけ考えれば、日本のアパレルメーカーが世界で通用しないほうがおかしいのである。HONDAもTOYOTAもSONYも、恵まれた背景で世界戦を挑んだわけではなかっただろう。彼らもまずはそれぞれの業界での世界標準の意識を持つことから始めたのではないだろうか。それを考えれば、閉鎖された狭い日本市場で食えていたアパレルメーカーを取り巻く環境が、その意識を彼らから失わせていたといえる。リスクを取らない世界でも稀有な取引形態である日本の百貨店にいまだに売り場を求めているのは、アパレル産業だけではないか。本屋も電器屋もレコード屋も家具屋もみんな自分達で販路を作り百貨店から出て行ったではないか。日本国内だけ見ても他産業との意識の差は歴然としている。同じ繊維業界でも、最近は翳りが見えるとはいえユニクロなどの新興ストアは全く意識の根底が従来のアパレル産業と違うからこそ国内では百貨店など全く頼らず社会現象になるような大躍進を達成し、次は世界戦を挑み国際競争力を磨きにかかっている。ユニクロが大ブレークしていた頃ユニクロ並みの値段で商品を展開しようとしていた百貨店系アパレルメーカーもあったが、それなど愚の骨頂の極みであり、なんの対策もなくただ単に値段を下げろ下げろの大合唱を繰り返し、単に仕入先を値切っていただけにすぎなかった。「なんでユニクロはあんな上代で売れるんだ?」と真顔で訊く大手アパレルメーカーのMDもいたりした。「もうちょっと勉強しろよ!」
今後、更に日本の市場は開放が進み、市場自体(消費者)は否が応でも世界標準に近づいていくだろう。そのとき、日本のアパレルメーカーは一体どうするのだろう。もう甘えは許されない。待ったなしの世界戦が日本を舞台に繰り広げられる。今、日本経済が停滞しているため様子見の黒船が日本近海にはわんさといるはずであり、日本経済に上向きの気配が見え次第、着岸するであろう黒船にカウンターパンチを浴びせることができるアパレルメーカーがどれくらいいるんだろう。しかし多くのニッポンアパレルメーカーは、そういう意識すらないようにも見える。昨今のユニクロの停滞を喜んでいる程度であり、近海で待ち構える黒船に対する準備は全くしていないように思うのだが。。。 

6、商社として。。。
私も商社という立場で世界標準に近づくこの日本市場でどうすれば生き残りを果たせるか、ということを最近はずっと考えている。一つ言えることは、今まで売り先としてしか見ていなかったニッポンアパレルメーカーの意識を変え百貨店軸のビジネスではなく消費者軸のビジネスへの転換を共にパートナーとして構築することが重要である、という点である。しかしながら、日本のアパレルメーカーというのは封建的で頑固で過去の自己成功体験をベースに物事をジャッジする方がいまだにTOPに座っているケースが多く、そういう意識変化は極めて困難と思う。移り変わりのスピードが極めて速いファッション産業で、トップマネージメントが、ひ孫がいてそうなお爺ちゃんじゃどうしようもないでしょう?

 色々と書いてきたが、最後に一つ、これはあくまで勘なのだが、私は日本のアパレル市場で今後最も注目すべきで重要なのは、異業種の参入だと思っている。ファッションというものはいまや洋服だけでは演出は不可能で、生活空間そのものを演出して初めてファッションである。近年のカフェブームなどはその顕著な例で、「青山のスターバックスでエスプレッソを飲む」これがファッションである。その点から考えれば、食品業界などは最も近い存在。また、ブロードバンドの急速な浸透と低価格化で、先ほどのスターバックスでのファッションシーンに「無線LANでストリーミング放送を見る」というフレーズが加えられる可能性もある。いまやインターネットは「PCオタク」の世界から高感度世界へと移行しつつある。そういった意味からもIT業界からの参入もあり得る。 新型i-Macやi-Podの美しさなんぞは十分ファッションと言える力があるし、そうなればマイクロソフトも黙ってはいないだろう。APPLEにSONY、そして自動車業界よりHONDAなどは、是非 この業界に参入頂き、大胆な切り口でグローバルスタンダードを浸透させて欲しいと思っている。
 そうなってくると商社にとっても色々と活躍の場面が増えてくる。繊維業界の新参者ではあるが完全にグローバルスタンダードで物事を考える彼らと日本のアパレルメーカーがうまくコラボレート出来れば、黒船の来襲にも耐えうる武器になりえるのではないか、また、それをコーディネートするべき存在は商社なのではないか、と私は夢を見つつ、実現に向け賛同してくれる方を探しているのである。

「誰か一緒に考えてみませんか? “StarbucksでSonyのPantsとAppleのAqua-designのJacketをさりげなく着こなした女性がi-Podで音楽を聴きつつ、エスプレッソを片手にVAIO-NOTEでWeb-Surfing”というシーンもお洒落!と感じる日が来るっていうのも有り得る話でしょ?」

*繊維・アパレル業界にお勤めの皆様
あなたも繊維・アパレル業界に対しての経験談を語り、あなたの経験とノウハウを次世代に伝えていきませんか?繊維業界を正しく著した書物は日本には存在しませんし、ちまたにあふれる情報は表面的なものばかりです。繊維・アパレルの実情を知りたがっている日本中の若い世代にあなたの事実の声を伝えていきましょう。

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